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2016年7月

2016年7月31日 (日)

教えるという仕事から学んだこと

 


縁あって「教える」仕事をしている。
しかも相手は5歳からティーンエイジャーぐらいの子供たちである。
私が十代の頃、一番出来ないと思っていた仕事をもう数年しているのだから、
私のことを昔からよく知っている人などは「あんたが?!」と笑う。
最初は手に持ってた技術でお金になることを半信半疑で始めた程度だったのだけれども、
それも続くと案外様になってくるものだなあと思う。
人生わからないものである。

さて、いつぞやにまわってきた下表を見て欲しい。
(青田努さんという方はよく存じないのだけれど、
検索してお見受けする限りでは人事のエキスパートの方のようですね。)

Image1_2


私の経験上、本当の”超初心者”を教える場合、
「正しい方法で一発で覚えてもらう」というのが後々のことを考えても一番楽だ。
そしてそれを実行するためには、(この表からもわかるように)教える側の技術が物凄く問われる。
自分が課題を十分に把握して上手に出来ることというのはもちろん大事なのだけれど、
そこから他人に教える場合は、その自分を頭から切り離して考える必要がある。

この表は多分”大人対大人”を想定して書かれたものなのだろうけど、
“対子供”でも全く同じことだし、もしかするともっとシビアかもしれない。
子供達は大人が思っているよりもずっと賢いから、
④や⑦のいうように彼らが使うのと同じ言葉を選んで説明してやれば、
パズルのピースをはめるみたいに簡単にやってのける。
⑥の”スピードの調整”は、子供を教える場合は特に大事だと思う。
相手の理解のスピードを把握するのはもちろん、
彼らの集中力が持続する時間も把握する必要があるからだ。
5歳以下の幼い子たちは30秒保てば良い方で、それ以上長い時間同じことをやり続けられない。
だから、次から次へと新しいことをさせながら10分後、20分後、一週間後・・・というように何度も反復させるしかない。まさしく「手を変え品を変え」というやつである。


まだ駆け出しだった頃、「仕事である」という概念に囚われすぎていたことがある。
一分一秒でもしっかり教えなきゃ、という焦りがあった。
お金を貰う立場として確かにそれは間違ってはいないのだけれども、
困ったことにこちら側に焦りが出れば出るほど、子供は食いつかなくなるのだ。

小さい子供を相手にする場合、教える側が一緒に楽しんでいることが大切だ。
彼らのまだ狭い世界で起こっている日々の出来事を聞いてやり、ちょっとした雑談に応じることが、
もっとも大切なことだと気がつくまで随分時間を要した。
そして自分自身の教える技術が向上してくれば、それらの雑談のための時間は自ずと生まれてくるということも。
一日で出来たところを蛍光ペンでマークしてこれだけ出来た、というのを明確にしてあげると「え、今日こんなに出来たの?!」と彼らは喜ぶし、良く出来ました、と最後にキラキラしたシールなんかあげれば5歳児などチョロい。笑


”対大人”の場合でも同じことではないのかと思う。
私は、教えるということは一種のコミュニケーションの形だと思っている。
しかも、相手がその先、その分野を好きになれるか否かを左右するから結構責任重大だ。
どうせだったら、教える方も教えられる方も気持ち良くいたいじゃないか。




ちょっと昔の話
ここでちょっと昔の話をしようと思う。
私が以前働いていた「教える仕事」をする会社の話だ。
インストラクター達はその会社独自の学習方法のトレーニングを受けた後、
生徒達に派遣されるというシステムだった。
今の私の技術はほぼ全て、ここで過ごした期間に習得したものだからあまり悪くは言いたくないけれど、
ボクシングの稽古で度々サンドバッグにクソ社長の顔を思い描いてぶん殴っていることぐらいは許して欲しい。(お察しください)
早い話が
「見栄っ張りの社長とそれにただ黙って従うしか能のない肩書きだけのクズ重役に進言した私はある日突然クビになった」
という売れないラノベのタイトルにしても酷すぎるようなことが起きた。

大部分のことはシラフでは到底書けない内容なので割愛するが、ここで一緒に働いたわたしの同僚は皆、①ブチ切れてやめるか、 ②ある日突然クビになる(これは本当は契約違反)の二択だったことから(お察し下さいその2)


良い技術を持っている人が必ずしも良い指導者ではないという典型の職場だった。
今の私はここで学んだ技術を遺憾なく発揮して儲けるということと、
ここで関わった人達を全て反面教師にすることで成りたっていると言っても多分過言ではない。
転んでもタダでは起きるな!



サービスでお金をとるということ
サービスを提供するというのは「有形のプロダクト」という形でないから、
値段の付け方が少々難しい。
私の同業者のKは、私より若いがわたしより経歴も知識もある。
にも関わらず、私よりも安い料金でやっている。
私から見てもとても良い先生で良き友人でもあるのだけれど、
彼女の強みであり最大の弱点は”お人好し”であるということ。
彼女は、自分の生徒の友達だのなんだのですぐ理由を付けてディスカウントしたがる。
安くても知名度が上がった方が良いよ、と彼女は以前教えてくれたが、
安い知名度は安いクライアントしか呼び込まないから私は賛同しかねる。
お嬢ちゃん、お人好しってのは腹の足しになるのかい?


専門職というのは、サービスそれそのものを提供する対価だけでなく、
その技術を習得するまでにかかった時間や教養、今までの経験までに適正な値段を付けた総額を提示することだと私は信じている。
そしてその価値観がクライアント側と共有出来ないのならば、(私の場合は)そこに契約は成立しない。
そこにどんな理由があろうとも、私は絶対に絶対に、二度と自分の技術を安売りすることはしないと、前の職場での苦い経験からそう決めた。
それは同時に、自分自身に対する “値段に見合う仕事をする” という約束でもある。

前述した会社では、従業員に対する対価の考え方が信じられない程ずさんだった。
「サービス」という形のないプロダクトの性質の上に胡座を掻いて、
彼らは本来支払うべき対価をうやむやにしていたと思う。
また、サービスの向上(=従業員達の技術の向上)を含めた”クライアントの顔色伺い”ばかりに固執して、いつも第一線にいる先生達のケアを蔑ろにしていた。
彼らはそのうち私のことをスター選手だなんだと褒めちぎるようになったが、
私のそれまでの努力や献身に見合った報酬はいつまで経っても与えられなかった。

新しいプロジェクトの度重なる企画倒れや、クライアント数の伸び悩みに対する解決方、
経験を積んだ従業員達へ対する待遇の改善などを理路理然と提示したが、

肩書きばかりの裸の王様ならぬ”裸の社長”(※ビジネス経験ゼロ)は私の話にも私の同僚の話にも耳を貸すどころか最終的にその全員を気に入らないとクビにした。
それ以降私の心の両中指は会社の方角を向いて立ったままいまだに引っ込む気配がないのだが、それでも私はあれは必要な経験だったと信じている。


専門技術や知識を持っている人は、(まだ若造の私がこういうのもアレなのだけれども)
どうか、その技術、知識と経験に自分の納得のいく値段をつけること、
必要ならばそのために戦うことを恐れないで欲しい。

日本の人は、往々にしてお金の話をしたがらない。
でもお金の話をするのは、クライアントと円滑に気持ちよく仕事を進める大事な第一歩だ。
もし決裂したらそこまでで、最初からそんな話はなかったものとして次に進めばいい。
どうかどうか、うやむやにしないで欲しい。
正当な対価はプロとしての自信にも繋がる。
あなたの分野を知らない人は、あなたの価値を知らないのだから。



教えることの美徳
クビになった直後、もうこの仕事は辞めようと思っていた時、一人のクライアントが電話をくれた。
「うちの子はあなたのことが大好きだから、どうかまた教えに来てくれないか?」と打診された。正直あまり乗り気ではなくて、じゃあちょっとだけ、という程度の気持ちだった。
それがひとりまたひとりと生徒が増えて、なんだか知らない間に結局またこの仕事で落ち着いている。
リアルタイムでフィードバックが返ってきて、毎回スリル満点の一発本番。
対価は自分の言い値。
賭け値なしのやりがいがあると思う。
先日教えた5歳の子は「もうおしまいなの?!すごくたのしい!もっとやろうよ!!」と言ってなかなか帰してくれなかった。
もう3年ぐらい教えている7歳の子は、初めて出会った頃はそれこそ泣いたり怒ったりするのを宥めてすかしてばかりだったのに、
今はすっかりお姉さんの顔で代わりに泣いたり怒ったりしながらレッスンを受けている彼女の幼い妹を傍観しているのが本当におかしい。
彼らの両親すら知り得ないようなレッスン中の百面相を見て帰るだけなのだから、本当にオイシイ仕事だなあと思う。